『野火』には時代背景もあってどこかモノクロのイメージを勝手に抱いていたが、緑葉が鮮烈で眩しい原野と地獄絵図の対比の世界を、小説では味わえない原色の映像で作り上げただけで、映画として『野火』を提示した意味があるように思えた。あまりにも過酷な状況の中で遠く上がる野火の映像が、原作での田村一等兵の神にまつわる思考などの一切を映画として体感させ、飛び散る肉片の生々しさやあらゆる感情を揺さぶる演者たちの表情が言葉を超えて迫ってくる凄味になっていた。
肉体、精神のギリギリを彷徨う表現や、容赦のない人体破壊描写は塚本晋也が今まで描いてきた暴力表現あってこその凄まじさで、そこにはこの状況には絶対になりたくないと思わせる原初的な恐怖があって、それは今の政治や社会の風潮へのカウンターとしても機能していた。この部分に関してはいつもの塚本晋也の色が出過ぎていると思われかねないが、原作において、戦後に戦争で利益を得る者たちが再びそれを欲する兆候と再び彼らに騙されたい人達の存在を感じる田村の気分を作品に込めているようにも感じられた。
そして何より塚本晋也が役者としていつも通りに凄く、これだけのスケールの作品をとことん自主製作で作り上げながらの怪演、一体どれだけの情熱を注ぎ込んでいるのか想像するだけで目眩がした。