まずストーリー。プロットは単純ながら個別の人間関係などはよく飲み込めなかった。ほとんどの画面が美しい絵画さながらの遠景で撮られているので個人の顔が大写しになることが少なく役者の識別は困難で、おまけに唐の朝廷から嫁いだ田李安の義母嘉誠公主と隠女の師匠の道士が同じ顔(あとで調べると双子という設定らしい…)などというトラップがほとんど説明無しに仕掛けられているのでより混乱した。隠女の唯一の拠り所の鏡磨き職人、妻夫木聡も遣唐使の日本人だということらしいが、これも観ている間は理解出来ていなかった。とはいえ物語自体はある程度の流れだけ感じ取り、あとは映画世界に身を委ねて堪能出来れば良いという類の映画なので、理解出来なくても大丈夫だった気はする。まあ、それは半分読解力不足の言い訳だけど、侯孝賢自身がそのように撮っているというのはあると思う。
途中、鏡磨きの青年が故郷での新婦(忽那汐里)との結婚式を回想していて、ここは画面自体も忽那汐里も圧倒的に美しいが、この場面は日本公開版以外は(勿体無いとは思うが)まるごとカットされているらしい。それでも全体の印象としてはさほど変わらないのじゃないかと思わせてしまうのは個々のシークエンスの積み上げが、物語を紡ぐことより世界の全体像を表現するために機能しているからで、そういうところも今作がストーリーに比重を置いていないと思わせるところだった。
で、物語を差し置いて今作の魅力になっている世界そのものを構築しているのは、宮廷そのものの荘厳さやそこで蠢く人物たちのコスチュームの華麗さ、そして人物そっちのけのロングショットで撮られた圧倒的な中国の自然美というもの。そしてそれだけなら綺麗な文芸映画という感じだが、宮廷や自然美の中でそよぐ風が隠女の使命と人間的感情との間で揺らぐ心の機微と呼応したり、不穏さを醸し出したりと映画に不思議なリズムを与えていて、さらにそれがどこか魔術的なムードをも映画全体に持たせていた。実際に魔術的、呪術的な表現も出てくるし、静寂の中で突然展開される非現実的な剣戟シーンも相まって独特のダークファンタジーという趣きがあった。
作品世界の細かなリアリティーを積み上げて全くオリジナルの異世界を構築する感じはちょうど先日読んだマーヴィン・ピークの『タイタス・グローン』とも通底していて、現実とは違う時間の流れに浸らせてくれるファンタジーの醍醐味があった。もっともその時間の流れがゆったり過ぎてかなり眠くもなったんだけど…。
というわけで、ウォン・カーウォイがいつものやり方(グリグリ広角レンズ)で武侠物(楽園の疵)をやったら妙なものが出来てしまったように、侯孝賢が自身のスタイルのままで武侠物を撮ったら中国の圧倒的な自然美と極限に抑制されたアクション(ワイヤーも有り)でオリジナリティー溢れるダークファンタジーを創出してしまったというような、眠くはなるが退屈ではない、いい映画だった。